校区の大字山粕(やまがす)を通る伊勢本街道

伊勢本街道は、大阪、京都などから奈良を通り、初瀬、榛原、室生区田口、曽爾村山粕、御杖村菅野を通り、伊勢の多気から櫛田川の谷に出て山田に向かう街道。江戸時代によると天下泰平になり、一般庶民の伊勢参りが盛んになった。
曽爾村山粕は、初瀬から6里(約24q)宿場で、奈良盆地を旅立った参宮客宿泊地、大阪方面から2日目の宿泊地となったので宿屋などが大変賑わった。また、民謡に「お伊勢参りしてこわいとこどこか、飼坂 櫃坂 鞍取峠 鶴の渡か宮川か」とつ伝わっている。

「歌にうたわれているぐらい険しい峠だったそうですが、実際に峠だけ歩いた人に聞いてみるとそんなにしんどくないといっていた。でも、旅のと中だったのでしんどかったんだと思いました。」


  問屋屋敷跡                               


ここでは、馬や、かごの手配。荷物、手紙の配送。かわせの扱いをしていた。
問屋という屋号で1800年ごろ、宿屋名簿に登録されていて宿屋と問屋業を営んでいた。
他にも山粕地区には、レストラン、雑貨、饅頭屋、染め物屋、葛屋、油屋、酒屋などのお店が軒を並べていた。


「今はもう建物はなく、写真のような石ひがあるだけです。僕は、山粕が栄えていたころにあった線香屋という店がまだ残っているのは、すごいなと思いました。これからもいろんな建物の歴史や仕事を調べていきたいです。」

     


上茶屋   (宿屋)

植田さん宅は、上茶屋という宿屋を営んでいた。そして、九州からも旅人が来ていた。九州から大阪までは船に乗って来た。 江戸時代の後期に、熊本県から三人の女性が伊勢参りに訪れた時に、その一人がこの宿で病気にかかり亡くなった。残りの二人が帰ってから出したお世話になったお礼のお手紙が今も残されている。

「九州から旅人が来るなんて伊勢参りは大切なことだったんだなと思いました。今でも昔の手紙が残っているなんてびっくりした。手紙を見せてもらうと昔と今の字がちがうなと思いました。」

   


 手向地蔵

     

山粕地区内にある道しるべの一つ 正面は南無阿弥陀仏、左側は伊勢道と書いてあった。道中の安全を祈願したのだと聞いた。


 鞍取峠

伊勢街道の中で三番目に高く、二番目にけわしい峠といわれている。本街道の難所の一つ鞍取峠は、「やまとひめのみこと」が伊勢にお参りしているとき、このけわしい坂で馬の鞍が飛んだことから鞍飛坂と名ずけられ、現在、鞍取と呼ばれるようになった。昔の旅人は、峠をあるくのは明るい時が多かった。夜は峠をあまり歩かなかった。


    
 「これからも曽爾村に伝わる伝説や歴史を調べていきたいです。」


 明治時代の山粕


「これは、山粕の昔の写真です。伊勢湾台風以前の様子です。分かりにくいですが昔の建物が多く写っています。でも、ほとんど台風で流されたので宿屋などは残念ながらありません。山粕の宿場がさかえていたころのことを調べて僕は、昔の曽爾の人はいろいろな地域の人とのかかわりが深かったんだなあと思いました。僕も機会があればいろいろな国や地域の人とかかわっていきたいなと思いました。」


         宿屋などが立ち並び賑わう街道

山粕地区には、宿屋をはじめ各種の店屋があり大変賑わった。例をあげると、荒物屋、木綿屋、饅頭屋、上茶屋、木屋、鍵屋、松屋、紺屋、枡田屋、松坂屋、左官屋、中屋、米屋、広島屋、茶屋、母屋、葛屋、大庄屋、井筒屋、大和屋、問屋そして線香屋など。奥宇陀で一番栄え「奥宇陀の大阪や」とさえいわれ、人形浄瑠璃芝居が行われ三味線の音が聞こえたのは、奥宇陀でも山粕だけであってといわれている。

「私の家は伊勢街道の地図では「左官屋」と書かれています。それで、なぜかなと思って調べてみました。すると私の大おじいさんは、左官屋をしていたことが、わかりました。そして三味線もひいていたことがわかった。大おじいちゃんは、朝まで三味線をひいていた。朝まで三味線をひくなんてしんどいだろうなぁと思いましたが、それぐらいにぎわっていたんだなあと思いました。 」